「‥‥こんばんは」
「こんばんは、メイブさん。私が悪魔祓いのカシウスです」
メイブはカシウスを家に招き入れると、奥の部屋に案内した。
暖色の照明が煌々と点けられているが、どこか不気味な空気が漂っている。部屋の隅にはメイブの娘がいた。ぬいぐるみを抱きながら本を読んでいる。金糸を編んだようなブロンドの髪は、照明の光を受けて輝いていた。
「この子が悪魔に?」
「ええ、娘のオーロラと言います。オーロラ、挨拶を」
オーロラは本を閉じ、カシウスに目を遣った。
「あら? 悪魔祓いを頼んだのに、神父じゃないのね」
「悪魔祓いは神父だけの仕事じゃないからね」
「大丈夫かしら?」
ずいぶんと生意気な口調の娘だったが、カシウスは気にしていない。持参したアタッシュケースを開くと、悪魔祓いの準備を始めた。銀の食器、花の蜜を詰めた瓶、宝石のような岩塩‥‥ひとつひとつ確認しながら、机の上に並べていく。
「準備をしている間に、悪魔について聞かせていただけませんか?」
メイブは周囲を見渡すと、静かに語り始めた。
「最初の違和感は、ぬいぐるみでした。気づくと、置いていたぬいぐるみが倒れているんです。ベッドメイクをしたのにシーツがズレていたり、鉛筆が転がっていることもありました。それに‥‥あなたが本当の悪魔祓いならもう気づいているはずよね。この部屋の違和感に‥‥」
カシウスは微笑む。
「ええ、とても重苦しい空気が充満しています。悪魔は、娘さんのすぐ後ろに」
「――やっぱり!」
メイブは自分の腕を抱く。カシウスは気にせずに続けた。
「私には見えていますよ。オーロラさんの後ろに、醜い顔をした悪魔がいるのを‥‥」
「やめて! 早く祓ってください!」
メイブは目を背けた。当のオーロラ本人は、母親ほど怖がってはいないようだ。
「カシウスさん、確かにこの部屋は急におかしなことが起こりはじめた。なんとなく嫌な気配もするわ。でも、わたしはママほど怖がっちゃいない。あなたが本物なら、わたしにも悪魔とやらを見せてよ」
「かしこまりました。どちらにせよ、姿を現すでしょう」
カシウスは小さな台座の上に銀食器を並べた。そのうえにおがくずや岩塩を乗せ、色とりどりのオイルを垂らし、火を点けた。独特な香りの煙が部屋を埋めていく。しばらくすると、その煙とは別のにおいが鼻を掠める。気分の悪くなる、腐った野菜のようなにおいだ。
「出てきましたよ」
カシウスが鳩の羽根をまとめた扇で煙を散らすと‥‥悪魔が膝を抱えて座っていた。
「きゃあああああああ!」
「あ、悪魔よ! 本当にいたんだわ!」
メイブとオーロラはカシウスの後ろに隠れる。悪魔は濁った眼でじっと三人を見つめていた。
カシウスは銀のナイフを取り出し、流暢に呪文を唱える。そして、銀のナイフを悪魔の喉笛に突き刺した。
「‥‥ガ、ギィィ!」
悪魔は苦しそうに悶える。口から緑の唾液をまき散らして、手足をバタバタと動かしている。
「こんな醜い悪魔と一緒にいたら、さぞ気分が悪かったでしょう」
カシウスは清潔な紙でナイフを拭くと、それを銀食器の上で燃やした。
「直に消えます」
カシウスが言い終わるや否や、悪魔は霧散した。
「おお、ありがとうございます‥‥」
祈りを捧げるような仕草で、メイブは何度もカシウスに礼を言う。
「実際に見たら信じるしかないわね。あのまま居着かれていたら、どうなっていたか‥‥。想像するだけでも怖いわ。カシウスさん、ありがとう」
オーロラも申し訳なさそうにして、カシウスに深く感謝を伝えた。
「いいんですよ。悪魔から人を守ることが、私の使命ですから」
メイブから報酬を受け取ると、夕食の誘いも断りカシウスは帰路に着いた。恍惚な表情でカシウスを見るメイブに気づいていたからだった。
「本当は食事も食べて帰りたかったが仕方ない」
自宅に着く頃には夜になっていた。カシウスは硬くなりかけたパンを、少しだけ齧った。
今日使った悪魔祓いの道具を補充し、ベッドに横になる。腐った野菜のにおいがした。
「――なんの用だ?」
カシウスの傍らに、醜い悪魔が恨めしそうな目をして立っていた。今日祓った悪魔とよく似ている。カシウスはため息をひとつ。こうなることは薄々わかっていたが、それでも面倒だと思った。悪魔のほとんどは番で行動する。今日、オーロラの家には一匹しかいなかった。ということは、これが祓った悪魔のパートナーだ。
「‥‥ワタシたちがなにをしたんだ」
声が脳内に直接聞こえてくる。低くしゃがれた声だった。
「あの部屋に居着いていただろう」
カシウスは体を起こす。悪魔の濁った眼から黄色い涙がこぼれていた。
「ただそこにいるだけで、ワタシたちはなにもしない。なにもできない。小さなものを動かすくらいの力しかないんだ」
「そんなことは知っている。お前らは家に溜まる負の空気を食べているだけ。ただ、不気味なだけで」
「知っているなら、なぜ殺した? ただそこにいただけ。それだけなのに」
「不気味だからだよ」
カシウスは銀のフォークを悪魔の目に突き刺した。
「なぜそっとしてくれない。‥‥返して。ワタシの大切な――」
悪魔の声は途切れ、霧散していく。その最期を見届けた後、カシウスは窓を開けて換気をした。
建付けの悪い窓がギシギシと鳴る。窓から空を見上げると、満天の星が輝いていた。先ほどの悪魔とは正反対のような美しさに、心が洗われる気持ちになる。
「‥‥パパ、帰ったの?」
「ダニエル、起こしてしまったかい?」
カシウスには息子がいた。生まれつき病弱で、心臓を患っている。母親が命を賭して産んだ息子は、いつその命が尽きてもおかしくなかった。治療には高額な金が必要だった。そのために、カシウスは悪魔祓いになったのだ。
神父でも悪魔祓いができる人間はそう多くない。たとえ悪魔が無害だったとしても、利用するしかなかった。
「夜は冷える。ベッドでゆっくり眠りなさい」
「はい、パパ」
――今、風邪でもひいたら大変だ。メイブからもらった金でようやく目標の金額が貯まった。これでダニエルの心臓の手術が頼める。手術さえ終われば、ダニエルも普通の子と同じような人生を送れる。
ウイスキーでも飲みたい気分だったが、酒はずいぶん前に断っていた。ダニエルの手術が終わるまで我慢すると決めていた。もうすぐ、とびきりおいしい酒が飲めるだろう。カシウスは再びベッドに潜ったダニエルを優しい目で見つめていた。
待ちに待った手術の日が来た。
とても難しい手術だが、外科手術で右に出るものはいないといわれる名医を病院が用意してくれた。
「パパ、ぼく大丈夫かな?」
ベッドの上で不安そうにしているダニエル。カシウスは、その真っ白で冷たい肌に触れた。
「大丈夫さ。ママだって見守ってくれている」
心臓の手術が終われば、この血色のない肌も色づき、あたたかくなるだろう。そのために、今まで頑張ってきたのだから。カシウスはダニエルを優しく抱きしめた。
「ずっと近くにいるからね」
ドクターと何人ものスタッフが手術室の前に立っている。
「申し訳ないですが、お父さんはここまでです」
さすがに手術室には入れない。ただでさえ大きな手術だ。小さな息子の、生命そのものと言える心臓の手術。手術室のなかは完全に滅菌され、虫どころかウィルスだって簡単に入れはしない。
「よろしくお願いします‥‥!」
カシウスは深く頭を下げる。扉の開く音が聞こえ、頭を上げた。手術室のなかはどうなっているのだろうと、興味本位でなかを覗く。
――手術室には、大量の悪魔が立っていた。
背中に氷を入れられたような寒気がする。
悪魔はどこにでもいる。
しかし、たったひとつの場所にこれだけの悪魔がいるのはどう考えても異常だった。
30、いや40匹はいるだろう。くすんだ色をした悪魔達は、カシウスを見ていやらしく口角を上げた。カシウスは嫌な予感がして、手術室に入ろうとする医者を止める。
「――待ってください! この部屋に」
医者はカシウスが掴もうとした手を払った。
「なにをするんですか! 私たちは、今から1ミリの誤差も許されないような手術をするのです。万が一、手をケガでもしたら手術できないんですよ!」
医者はそう言うと、迷惑そうな顔をして手術室に入っていった。重たい扉が閉まり、施錠される音が廊下に響く。もう、カシウスが手術室に入ることはできない。
頭の中に今さっきの医者の言葉と、あの日聞いた悪魔の言葉がぐるぐると回りだした。
――今から1ミリの誤差も許されないような手術をするのです。
――なにもできない。小さなものを動かすくらいの力しかないんだ。
あれだけの数の悪魔たちが、手術中に、医者の腕や手術道具になにかしたらどうなる。
カシウスの脳裏に、ダニエルの神経や血管が傷つく映像が鮮明に映し出されていく。
カシウスの顔は、ダニエルのように青白くなっていた。
「‥‥今すぐ、手術を中止してください! このままじゃ、息子が死んじまう!」
手術室の扉を叩くカシウスを、病院の職員たちが押さえつける。
「なにしてるんですか! 手術の機会なんて何度もあることじゃないんですよ!」
カシウスは、神に祈るしかなかった。
半日が経つと、ようやく手術室の扉が開いた。
医者は汗だくの額を拭いながら話す。
「安心して下さい。手術は無事成功しました」
カシウスは涙を流し喜んだ。この半日、まるで生きた心地がしなかったのだから、当然だ。
安心しているカシウスに、悪魔が囁く。
「本当に手術が成功したと思うか?」
「ダニエルは事故に遭うかもね」
「お前の大切な息子は、いつ死んでしまうだろう?」
「悪魔祓いがしたいのなら、その命が尽きるまで永遠にするといい」
病院を埋め尽くすほどの悪魔が、カシウスを見つめる。
腐った野菜のにおいがしていた。
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